631 : 鋸(アラバマ州):2009/11/18(水) 23:30:21.25 ID:j2lE6wPI
iTunes Storeが始まる時にジョブズが「違法ダウンロードと戦う」って1曲1ドル以下で
スタートした意味を全然わかってないよね。
ケータイとか1曲数百円でしかも不便すぎる囲い込み。こんなん誰も買わんて。
633 : 梁(東日本):2009/11/18(水) 23:31:51.74 ID:zPIWB8tF
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同じことが日本のコンテンツ産業全てに言える

「メーカーの主張は子どものわがまま」 SARVHの東芝提訴受け権利者団体が会見 - ITmedia News
会見の様子は、津田大介さんがTwitterで実況。椎名さんは手元のBlackBerryでチェックしていた
ホリプロ創始者で当時代表の堀威夫さんと寺本さんとはその昔“スイング ・ウエスト”というウエスタンバンド(昔のカントリーはウエスタンって呼ばれていた)を一緒にやっていたのだ。第1回日劇ウエスタンカーニバルにもトップバンドとして出演する程の人気バンドだった。その後堀さんはプロダクションを設立。寺本さんはカントリーの道をひたすら突き進んでいた。道は違ってもかつての戦友、年に数回は会うという間柄。その堀さんに寺本さんが「今一緒にやっているベースの片山の息子が高校生でカントリーを歌っているから、面倒見てやってよ」といってくれたのだ。強力なコネクションである。寺本さんは俺に「日本のカントリーの世界で中途半端なライブを重ねるより、堀さんの所のようなしっかりしたところで勉強した方が誠史の為になる」と言ってくれた。
しかし堀さんも友人の一言で「それなら」と簡単に受け入れてはくれない。そうは問屋が卸さないって奴ね。でも俺はかなりの幸運の持ち主。ホリプロには数年前にカントリーの本場でアメリカ音楽産業の中心都市のナッシュビルに音楽著作権管理会社の支社を立ち上げていたのだ。ちょうどその頃それに目をつけたアーティストがいた。『ムッシュ』こと“かまやつひろし”さんだ。かまやつさんもその昔“ワゴンマスターズ”というウエスタンバンドでプロ歌手としての最初の活動をはじめていた。その後スパイダースを結成した時には堀さんの事務所の所属アーティストだった。
そのかまやつさんが90年代に入ってからのアメリカでのカントリーの盛り上がり方をいち早く察知していた。そこにホリプロのアメリカでの展開を聞きつけ、堀さんに「今、カントリーが面白いよね」みたいな話をした。かまやつさんの先見性を高くかっていた堀さんは「何でカントリーなんだ?」と聞いてかまやつさんがいろいろと説明をしたそうだ。その結果「それじゃ日本でカントリーやってみようよ」みたいな話になって行き、そこで立ち上がってきたのが『NEOカントリープロジェクト』なのだ。こうして堀さん、寺本さん、かまやつさんの微妙なトライアングルの中で銀座ナッシュビルにホリプロの人が俺を見に来るということになっていった。
”
1961年 東京グランド・オール・オープリー、ビッグ・ビル(23才)後列右から3人目 前列左から3人目ジミー時田、和田誠二、中央・文化放送「島村チーフプロデューサー」、右端ジャイアント吉田、隣は松平直久 後列左から4人目チャック宮城、6人目井上タカシ、7人目いかりや長介 (via 東京グランドオールオープリーの時代)
早速、肝心要の“若い”ギタリストを紹介してもらった。名前は長岡亮介。背は俺より高いけど体重は俺より軽そうなほっそりした感じのヤツだった。とりあえずお互いの連絡先を交換し、また合おうという事でその“出会い”の一日は終わった。
後日、亮介と目黒の事務所で打ち合わせをする事に。自分自身でバンドを組むということも初めてだったので、どう打合せするのかもよくわからなかったけど、とりあえずお互いギターを持ってきて一緒にあわせてみた。何をやったのか、話したのかはよく覚えていないけど、好感触を得たのは確かだった。ただ1つネックだったのは自宅が千葉県という事だ。俺は茅ヶ崎なので 地元で何かやろうという時には遠すぎる。どうしようかと悩む間もなく、天があたえたなんとやらで翌年4月から亮介が神奈川の東海大学に入学するというのだ。そして秦野でアパート暮らしをするとのこと。これによってバンド結成へのテンションがさらに高まって行った。
”長岡亮介=東京事変の浮雲

