伊沢は、1880年に合衆国からメーソンを招いた。メーソンは1882年に帰国するまで、西洋音楽の日本への移入を指導した。『小學唱歌集』の編纂にも関わった。メーソンの後任はしばらく空席であったが、海軍軍楽隊教師として1879年より来日していたプロイセン王国のフランツ・エッケルトが1883年より指導を行うようになった。
明治のはじめ、日本の音楽教育については、西洋音楽を日本に移植してそれのみを教育する、日本固有の音楽を育成発展させる、西洋音楽と東洋音楽の折衷、の3つの意見があった。伊沢は、折衷案をとり、その実現のための準備事業として、東西の音楽を折衷した新曲の作曲、将来の国楽を興すべき人物を育成するための教育、諸学校に音楽を実施し、その適否を確かめるための実験の3つを挙げた[1]。そのため、洋楽、雅楽、俗楽、清楽の調査研究を行い、それらをすべて五線譜に採譜すべきものとした。この研究は、日本の音楽が野蛮で劣るものとされた当時において、西洋音楽の直輸入により日本音楽が抹殺されるのを危惧し、特に日本の音楽と西洋の音楽に違いのないことを証明するのが目的であったといわれている[1]。
Mason was born in Turner, Maine. He worked as a music teacher for many years, in Louisville (1852-55), followed by Cincinnati, Ohio (1856-64), and Boston, Massachusetts (1864-79). In addition to teaching, Mason collected songs, wrote textbooks, and promoted their publication. His teaching method made use of charts and what were called “ladders,” to explain scales, staffs, clefs, note values, intervals, and dynamics.
While in Boston, he was scouted by the Japanese Ministry of Education on the recommendation of one his former pupils, Izawa Shuji in 1872.
During his stay in Japan at Tokyo Imperial University from 1880-1882, Mason and Izawa worked together to develop programs for the teaching of music in elementary and middle schools, developing teacher training programs, and creating the first graded series of music textbooks in Japan. He also laid the foundation for a national music conservatory, later called the Tokyo Ongaku Gakudan, and now part of the Tokyo University of Fine Arts and Music. He also imported pianos and other western orchestral instruments, and made efforts to “improve” Japanese musical taste by encouraging study of harmonics and popular western tunes.
1876年の電話の実験成功の直後に、東京音楽学校の校長となる伊沢修二と留学生仲間であるのちの司法大臣金子堅太郎は電話を使って会話をしており、日本語が世界で2番目に電話を通して通話された言語になった。
信濃国伊那谷、高遠城下に高遠藩士の父・勝三郎、母・多計の子として生まれる。父は20俵2人扶持の下級武士のため極端な貧乏暮らしだった。
1861年(文久1)から藩校の進徳館で学び、1867年(慶応3)に江戸へ上京。京都へも遊学して蘭学などを学ぶ。同年には藩の貢進生として大学南校(のちの東京大学)に進学する。
1872年(明治5)には文部省へ出仕し、のちに工部省へ移る。1874年(明治7)に再び文部省にもどって愛知師範学校校長となる。1875年(明治8)には師範学校教育調査のためにアメリカへ留学、マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校で学び、同時にグラハム・ベルから視話術を、ルーサー・メーソンから音楽教育を学ぶ。同年10月にはハーバード大学で理化学を学び、地質研究なども行う。聾唖教育も研究する。1878年(明治11)5月に帰国。
1879年(明治12)3月には東京師範学校の校長となり、音楽取調掛に任命されるとメーソンを招く。来日したメーソンと協力して西洋音楽を日本へ移植し、『小學唱歌集』を編纂。田中不二麿が創設した体操伝習所の主幹に命じられる。1887年には初の国産オルガンを持って上京した山葉寅楠(ヤマハ創設者)に調律の乱れを指摘し音楽論を教授している。1888年(明治21)には東京音楽学校、東京盲唖学校の校長となり、国家教育社を創設して忠君愛国主義の国家教育を主張、教育勅語の普及にも努める。
当時浜松で飾り職人をしていた河合喜三郎と協力し2ヶ月後にオルガンを完成させたが、浜松の小学校や静岡の師範学校での評価は低かった。そこで東京の音楽取調所(現東京藝術大学)まで徒歩でオルガンを担いで運び伊沢修二に評価を聞いたところ「調律が不正確」であることが原因であることが解った。そこで、寅楠が1ヶ月音楽取調所で音楽理論を学び、再びオルガン第2号を製作した。
明治維新は日本の近代化を大きく推し進めた。その一つ、1872 年(明治 5 年)の「学制」によって日本に近代教育制度が制定され、音楽も「唱歌」として学校教育に導入されることになった。 しかしながら、教師も教科書も無いなか、小学校の「唱歌」と中学校の「奏楽」については授業に組み込めない状況が続き、実際に「唱歌」が学校教育に導入されるまでには 7 年の年月がかかることになる。1875 年、文部省は伊澤修二(1851-1917)をアメリカに留学させ、日本の音楽教育の方法を探らせた。
こうして、日本の音楽教育は、西洋音楽の旋律に日本語の歌詩を添えた文部省唱歌として始まったが、作者名は伏せられ、唱歌としてのみ掲載された 34)。1885 年、音楽取調掛から一期生 23名が卒業し、日本の音楽教育の基礎作りを目指して全国各地に赴いた。1887 年、音楽取調掛は東京音楽学校(後の東京芸術大学)と改名し、伊澤は初代の校長となった。
このように日本の音楽教育は、文部省唱歌として導入された西洋音楽を起源としている。フォスターの音楽がアイルランドやスコットランド民謡に源をもつことを考えると、唱歌とフォスタ ー歌曲に類似点があっても不思議ではない。